北斎の人生まとめ
絵の鬼だったんだな、と。
- 物をスケッチしまくるような子供だった
- 18歳?で絵師一門(勝川派)に入門。
- 19歳で浮世絵師としてデビュー
- その後行き詰まり、いろいろな流派に弟子入りしまくって技術を学ぶ(狩野派、琳派などなど)
そのせいで勝川派の先輩に嫌われて対立し、勝川派をやめる。
※番組上では上記の展開だったが、他派への入門と勝川からの離脱の原因は諸説あるようだ - その後、西洋画を見て衝撃を受ける。(日本人が描いた西洋画)
- 西洋画を身につけるために海外交易が許されていた土地に行き、西洋人に接触。
(シーボルトら) - 西洋画の技法(遠近法、写実重視)を身につけ、実際に作品も描く。
写実的な水彩風景画。 - 絵一辺倒の生活の中で、後の波を連想させるような独自の表現を発展させていく。
- 富士山ブームの中、富岳三十六景を発表し大人気画家になる。
富岳三十六景の出版時、北斎は72歳。
富岳三十六景『凱風快晴』(がいふうかいせい) Fine Wind, Clear Morning
富岳三十六景『神奈川沖浪裏』(かながわおきなみうら) Great wave off Kanagawa
- 北斎75歳時、富岳百景が出版される。
富岳百景のあとがきが名文。- 己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし
- 七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
- 故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
- 願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の画を発表したが、70歳までに描いたものは実に取るに足らぬものばかりである。
73歳になって鳥獣虫魚の骨格や草木の生まれ出ずる様を少しは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます画は上達し、90歳でさらにその奥義を極め、100歳に至っては神業に達するであろう。そして、100歳を超えれば、一点一画が生きているかのようになるであろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことを見ていただきたいものだ。」 - 大人気絵師となった北斎。しかし、幕府の質素倹約令のせいで浮世絵業界自体がだめになる。北斎も極貧生活になってしまう。※この時期の元号は天保。つまり天保の改革。
財政難からの厳しい引き締めと倹約を命じ、当然の帰結として不況の傷を広げた悪名高い政策。
歌舞伎の市川海老蔵(七代目團十郎)も江戸を追放されたりしている。 - 信濃の有力者に招かれ、老体でありながら信濃までいく。
このとき、男波女波として知られる『怒濤』を描く。(祭屋台の天井絵)
この時87歳前後。↑「怒涛」図「男波」
↑「怒涛」図「女波」
- 90歳で死去。
起きている間はひたすら絵を描きまくって疲労で手が上手く動かなくなったらそばを食べて寝る、家はゴミだらけ、引っ越ししまくりといったはちゃめちゃな生活をしていたが長寿だった。
ライブペインティングの話が印象に残った
北斎がお寺で行ったパフォーマンス。
藁を束ねた巨大な筆を使って、紙百畳に線を引いていった。
見物客には大きすぎて何の絵かわからなかったが、完成して立ち上げ、遠くから見ると見事な達磨太師の絵であったそうな。
こうして北斎の興行ドローイングは大成功。
個人的には巨大アートのライブパフォーマンスは前衛的で最近のものというイメージがあった。
しかし全然新しくなかったんだなあ、伝統的と呼んでもいいような手法だったんだなというのが新鮮だった。